中国全国人民代表大会(全人代)において28日、中国政府が制定する「香港国家安全法」を香港に直接施行する方針がほぼ全会一致で採択されました。
これにより中国政府は香港議会を介さずに、自ら主導する「香港国家安全法」により直接香港国民を統制することが可能となります。そしてこれに対し香港政府もすかさず支持を表明しました。
国際社会の目がコロナ禍の対応に向けられている間の中国政府のこのような狙いすましたような動きにはどのような思惑があるのでしょうか。
本稿では今回の香港国家安全法制定に見える中国の思惑と誤算について考えてみました。
はじめに昨年の逃亡犯条例改正案をきっかけに始まった香港デモのその後の経緯を俯瞰します。
香港デモのその後の経緯
昨年6月から大規模化した香港デモはその後も収束の気配は見えず、要求も当初の逃亡犯条例改正案の完全撤回の他に、行政長官の辞任、従って普通選挙の実施、デモを「暴動」とする認定の撤回、警察暴力の追及と外部委員会の設置、拘束されたデモ参加者の釈放などの要求が加わり拡大しました。
●逃亡犯条例改正案の完全撤回
9月に入って、香港行政長官は当初の逃亡犯条例改正案の完全撤回を正式に表明しましたが、他の要求には応じない姿勢を改めて表明しました。
こうした香港政府の対応にデモ隊は香港国際空港を封鎖するなど、暴徒化しデモは益々エスカレートしていきます。
●覆面禁止法の成立
10月には香港政府により、デモ隊のマスクや覆面を禁止する「覆面禁止法」が超法規的措置として成立するも翌月には香港高等法院によりこの法律が香港基本法(香港の憲法)に抵触するとの判断が下るなど混乱が続きます。
●11月の区議会議員選挙
11月には香港中文大学や香港理工大など各大学での激しい攻防戦の結果多くの拘束者が出ました。
このような状況の中で、11月24日には香港区議会議員選挙が行われ、71%という香港返還以来最高の投票率で民主派が8割の議席を確保して圧勝しました。
しかし区議会の決定は香港政府に対する拘束力を持たず、これにより民主化が達成されたというわけではありません。
しかし香港デモはこの区議会選挙を境に一旦鎮静化したようですが、そこにコロナ騒動が始まりました。
●コロナウイルスによる鎮静化
香港では中国の発表よりも遥かに早い時期から新型コロナウイルス関連の正確な情報を入手しており、これには体制派、反体制派にかかわらず対応せざるを得ません。「3密」を避けるべく、結果的に香港デモは鎮静化していきます。
しかし民主化を求めるデモは収束した訳ではなく、本年元旦には一部暴徒化した数万人規模のデモが開催されるなどし、ここでも多くの拘束者が出ています。
以上が昨年来の香港デモの経過ですが、この比較的鎮静化したところに中国政府の香港に対する具体的な圧力が始まりました。次項では中国の思惑について解説します。
中国の思惑
中国政府としては、コロナ禍もピークが過ぎた現在、行動を起こすにあたって解決すべき3つの課題があります。香港デモと台湾問題、そして尖閣諸島問題です。
香港デモ
昨年来の香港デモは潰さないわけにはいきません。デモ側の要求を認め民主化などされると国内的にも示しがつかないことになります。
その上経済特区としての香港は大きな経済力と潜在力があり、それはそのままそっくり取り込まなければなりません。
台湾問題
加えて一国二制度を建前とする香港における民主化デモが、台湾の独立派に及ぼす影響も無視できません。台湾はあくまでも自国領土であり、同化しなければなりません。
尖閣諸島問題
そして資源の可能性が指摘されるや領有権の主張をはじめた尖閣諸島は、今更その主張を撤回するわけにはいきません。現在自国のコロナ騒動が一段落するや、公船を繰り出ししきりに日本領海内で日本漁船を追い回すなどの既成事実を積み重ねています。
これらの課題は中国共産党の面目にかけても解決しようという思惑があります。この国の常套手段は、中ソ国境紛争や台湾海峡危機にみられるように、軍事的優位を確立した上で恫喝により国家意思を達成することにあります。
このような中国政府の思惑を踏まえた上で次項では今回の香港国家安全法の成立について考えてみます。
「香港国家安全法」成立の問題点
全人代の香港国家安全法の成立は世界中の非難を浴びています。どうしてでしょうか。
香港に関しては、返還前の1984年の中英連合声明により、要するに中国への変換後も50年間は外交と国防以外は「高度な自治権」を維持できるという趣旨のもとに中国に返還されました。この声明は中国とイギリスとの間に締結されたれっきとした国際条約です。
これをもとに香港基本法(香港の憲法)が成立しますが、こうした国家安全保障法制などはこの「香港の憲法」に基づき、香港の立法会で決められなければなりません。
過去に2003年、香港政府が国家の分断を図るような政治的活動を取り締まる「国家安全条例」を香港基本法のもとに制定しようとした際に、大規模デモが発生し棚上げした経緯があります。
加えて昨年の「逃亡犯引き渡し条例」制定の意図も大規模デモによりくじかれました。これに業を煮やしたのか中国政府は香港基本法に背いて香港立法会の頭越しに、中国政府が成立させた「香港国家安全法」を香港に適用することを全人代で決めました。
その内容は、香港における民主化のための反体制活動を禁じ、米英等、外国からの介入を阻止することを目的としています。このことは香港が返還後50年にわたって保障されるはずの「中英連合声明」の趣旨にもとり、「一国二制度」を無力化させ、「高度な自治権」の維持を不可能にさせます。
中国政府の要人はこの根拠に、「香港は中国の一部であり、全人代は中国の最高権力機関であること」を挙げ、その結果、香港議会を経ずに中国政府が、法律を制定し香港に適用することに問題はないとしています。
中国政府の圧力
4月に入るや中国政府は香港デモを根本的に潰そうと香港への圧力を矢継ぎ早に加えていきます。
18日には主要な民主派のメンバー15名の一斉逮捕、その翌日には香港政府により中国政府が介入しやすいような香港基本法の解釈変更、そして中国政府の任命により5名の新局長が新しく内閣に加わり中国色を強化しています。
その上で今回の全人代における香港国家安全法の成立へと続きます。
香港は中国にとって言わば「打ち出の小槌」、これでアジアの一大金融センター・香港がそっくりそのまま中国に同化されるでしょうか。
中国の誤算
この法律制定の結果、香港はどのように変わるでしょうか。中国の思惑は大きく狂うことになりそうです。
中国が国際条約を守らない国であることを世界に周知させる結果になりました。中国の国際的な信用は地に落ちます。
以前のSARS騒動の際の情報隠蔽問題以来、今回のコロナ禍に関する情報にしても中国政府は各国から信頼されていません。
さらにコロナ対策において、いち早く収束させ極めて重要な立場にいる台湾を政治的動機からWHOを通してオブザーバー参加を妨害するような国に、コロナ禍により塗炭の苦しみを味わっている世界各国の信頼は集まるはずがありません。
台湾の独立派はもとより、中国融和派にしても、「一国二制度」はあり得ないことを実感すると共に中国共産党政権の「本質」を確信することになります。
時期の早い遅いはあるとしても、各国企業はこぞって香港から脱出することになるでしょう。香港はアメリカだけでも1300もの企業が進出しており、10万人以上の雇用を創出していると言われています。各国企業の香港脱出による経済規模の縮小は甚大なものがあります。
香港はアジア最大の金融都市である地位とメリットと経済力を失うことになります。
アメリカでは「香港の高度な自治権検証法案」が成立しており、現トランプ政権は既に署名しています。
これはアメリカの国内法になりますが、香港における高度な自治権の実施態様を検証し、これを侵害した人物や企業、機関を特定し、その資産や口座を凍結するような実効性を伴う強力な法令です。米中関係の悪化が現在以上に深刻になるでしょう。
さらにアメリカは香港を関税闘争の範囲には加えていませんが、そうした香港の特別の地位を放棄することになるでしょう。その結果中国本土と同様に貿易には報復関税がかかってきます。各国企業のヒトと資本の逃避と相まって香港の繁栄は過去のこととなります。
おわりに
香港が中国に返還されることが決まった時代に香港からカナダやオーストラリアへの脱出・移民ブームが起こったそうです。今度も同様の香港からの脱出ブームが起こるのでしょうか。
「香港国家安全法」の成立直後、アメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダの4ヵ国はこれを批判する共同声明を発表しました。
同時にイギリス外相は香港がイギリス植民地時代に香港人に発行した英国海外市民旅券(BNO)を保有する香港人に対して英国の市民権を与える方向性を表明しています。
また台湾の蔡英文政権は香港の人たちに温かい支援の方針を表明しています。香港人にとって極めて信頼のできる頼もしい隣国と言えるでしょう。
今回の「香港国家安全法の成立」は中国にとってはその思惑とはかけ離れた重大な誤算となるような気がします。