トランプ大統領が、SNS上でイランを非難しています。これが一国を代表する人の言いようかと思うほどに凄まじい勢いです。
イランも負けじと応酬しています。この両国はどうしてこのような不仲な関係になったのでしょうか。どのような原因があったのでしょうか。
本稿ではアメリカとイランが不仲になった原因について調べてみました。
アメリカとイラン、両国の敵対感情がどの辺りから始まったのか、その始まりについて最初にイランの方からお話してまいります。
イランの反米感情の始まり
第2次世界大戦が終結した時点でイランはソ連とイギリスに分割占領されていました。この両国の圧力により初代のイラン皇帝レザー・シャーは子のモハンマド・レザーに皇位を譲り、退位しています。
モハンマド・レザーことパーレビ国王は欧米流の民主的な教育を受け、米英寄りの考え方をしていました。この当時イランの石油の権益はほぼ米英に掌握されていました。
1951年4月に戦後の混乱の中から、国民戦線を率いるモサッデクが民主的に首相に選出され組閣しました。
米英に批判的なモサッデク首相は石油国有化政策を掲げ、米英の息のかかるアングロ・イラニアン石油会社(英)から石油の権利を奪い返して石油国有化に成功しました。
石油資源の国有化はイランの人達にとってイランの主権回復の象徴であり、モサッデクはイラン国民の熱狂的な支持を集めました。
しかし石油国有化後、イラン産原油は米英の報復により、国際市場から閉め出されます。
イラン政府は財政難に陥り、モサッデクの政治基盤である国民戦線からは次々と離脱者が出るなど、次第に弱体化していきます。
そこにつけ込み米英は密かに反モサッデク派を支援して政権に揺さぶりをかけると共にクーデターを画策しました。
その結果1953年、モサッデクは失脚し、これ以降パーレビ国王は親米政策に舵を切り、独善的な強権政治に走ります。
モサッデクは学識のある高潔な人のようで、外国勢力や国内の宗教的宗派に組みせず、ひたすらイランの民族的な独立を掲げたことで知られており、現在でも多くのイラン国民に崇拝されています。
民主主義の国であるはずの米英が自国に不当に干渉し、指導者モサッデクを排除して民主主義の芽を潰してしまったこの事件はイラン国民の対米感情に拭い去れない影響を与えたことと思われます。
この事件がイラン国民の対米不信の始まりとなり、後々までも潜在して受け継がれているように思われます。
イラン革命勃発
1953年、モサッデクが失脚した後、パーレビ国王はいわゆる白色革命のもとに土地の改革や婦人参政権の実現、外国資本の導入など女性解放や教育改革、産業の振興に努めました。
また他のイスラム圏諸国を尻目にいち早くイスラエルとの国交を樹立し、原油の供給を始めとし、軍事的にも協力してアメリカと共に友好関係を保ちます。
しかしイスラム教を顧みない上から目線の強権的な施政と、反体制派に対する厳しい弾圧は国内の宗教的宗派を始めとする各方面からの激しい反発と不満を招き、加えて失政が重なり経済が混乱すると各地にデモが頻発するようになりました。
1979年2月、反パーレビを掲げるホメイニの主導によりイラン革命が勃発しイラン・イスラム共和国が成立します。
パーレビ国王は逃亡し、これ以降はイスラム教の宗教指導者による統治の時代に入り、対米政策は180°転換されます。これまで潜在されていた反米感情が顕在化されてきます。
アメリカも同様にこの革命以降はイラン革命政権に対する反イラン感情が始まります。
アメリカの反イラン感情の始まり
イラン革命政権は欧米の搾取に苦しむ周辺のイスラム諸国の同胞を支援し決起を促す政策を採ります。こうした政策が今日の中東情勢を複雑にしている要因と言えるでしょう。
この年、革命政権はパーレビ前国王がアメリカに入国したことが判明するや身柄引き渡しを要求し、カーター政権に拒否されると、1979年11月、激昂した一部のイラン人学生がアメリカ大使館を占拠するという人質事件が発生します。
これにより翌1980年4月アメリカのカーター政権はイランとの国交を断絶しました。
この事件は結局、前国王のカイロでの死亡が確認されたことからアメリカ、イラン間で話し合いが行われ、人質は1981年1月に444日ぶりに解放されました。
治外法権を有する大使館が襲撃されるというこの事件において、実行犯の行動は以下のようにまとめられます。
- 実行犯はアメリカ大使館を襲い占拠した
- その上、無抵抗な人質に対して粗暴な扱いをした
- 更に、実行犯は大使館員をその敷地内で人質にした
こうした実行犯の犯行に対し、イラン革命政権は何ら有効な措置を講じなかったことから、実行犯とイラン当局は繋がっていると認識され、これがアメリカの反イラン感情の決定的な始まりとなり、今日までも尾を引くことになります。
その後アメリカのカーター政権はイランの在米資産を接収すると共に、イランへの経済制裁を実施し、今日までも続いています。
1984年にはレーガン大統領はイランをテロ支援国家と指定しました。
また2002年にはイランでウラン濃縮施設が発見されたことからイランの核開発が問題となり、この年、ブッシュ前大統領はイランを「悪の枢軸」と呼び捨てています。
そして今日ではトランプ大統領がイランを名指しで非難しています。
アメリカとイランの歩み寄りは…?
この両国が歩み寄る可能性は有るのでしょうか。
2002年以来の核開発疑惑の問題を、2015年7月オバマ前大統領が主導する6カ国(米・英・仏・独・ロ・中)とイランが協議に臨み、イランは核開発を15年間大幅に自粛し、その見返りとして経済制裁を段階的に解除するという合意が国連の関与の下に成立しました。
この合意はイラン国内でも歓迎され、その後の国際原子力機関の査察でもイランが誠実に約束を履行していることが確認されています。
これはまさに奇跡的な両者の歩み寄りであり、オバマ前大統領の偉業として讃えられました。イラン国内の穏健派もアメリカや欧米にようやく歩み寄る気配が見えてきました。
ところが2018年5月、政権を継いだ現トランプ大統領はこれを最悪な合意であるとして、欧米各国の説得にも応ぜず、この合意からの離脱を表明しました。そして更に制裁を強化しようとしています。
そこまでしてイランを危険視するのはどうしてでしょうか。
互いに交戦国同士である
トランプ政権にとって、イランは交戦国であり、潰さなくてはならない相手であるという思いが強いようです。
現在中東で起こっている紛争の影の主役であるということです。イランにとってもそれはお互い様で、互いに影の交戦国であることは認識しています。
以下に現在の中東の紛争当事国と支援国を俯瞰します。
■シリア内戦 シリア vs 反政府勢力
シリア 支援国:イランなど
反政府勢力 支援国:アメリカなど
■レバノン南部 ヒズボラ vs イスラエル
シーア派ヒズボラ 支援国:イランなど
イスラエル 支援国:アメリカなど
■パレスチナ ハマース vs イスラエル
ハマース 支援国:イランなど
イスラエル 支援国:アメリカなど
■イエメン内戦 シーア派フーシ vs イエメン暫定政権
シーア派フーシ 支援国:イラン
イエメン暫定政権 支援国:サウジアラビア、アメリカ
この構図からアメリカとイランは交戦国であることが分かるかと思います。敵性のある国同士が互いに良好な関係を持てるはずがありません。この辺りにアメリカとイランの不仲の原因があるものと考えます。
ちなみにアメリカはイスラエルとサウジアラビアの同盟国であり、トランプ政権は強いイスラエル寄りの基盤に支えられています。
それにしてもイランは、オバマ政権時代には一歩譲って話し合いに応じる雅量を示し、結果的にあのような奇跡的な合意にこぎ着けました。
そこには中東の平和と繁栄に繋がる可能性も大いにあったはずです。
おわりに
国営サウジ通信は、2019年6月12日未明、イエメンの武装組織、フーシ派がサウジアラビア南西部のアブハ空港を攻撃し、市民26人が負傷したことを伝えています。
中東地域は、今、この瞬間も戦闘が続いています。多くの女性や子供、民間人が犠牲になっています。各紛争地域にアメリカとイランが交戦国として関与していない地域はありません。
これらの紛争は代理戦争であり、本質的にはアメリカとイランの戦争といっても過言ではありません。
オバマ政権において、イランもアメリカを始めとする欧米に心を開き、歩み寄る気配もみられました。それが政権が変わった途端にこれだけ険悪な関係になりました。
とりわけ大きな影響力を持つ大国の政権担当者個々の思惑により世界の安全が保障されたり、脅かされたりしています。
ここに現在の国際連合の機能的な限界を感じざるを得ません。